メリー クリスマス

安息日は教会へ

ご存知の方も多いと思うが私はクリスチャンだ。

 

今日はクリスマスイブだし、何故私が37年間も毎週日曜日(安息日)、教会に行き続けているのか書こうと思う。

 

 

ちなみにケントは安息日の夜中に生まれた。

 

その日、私は少々お腹は痛いものの、まだ大丈夫だろうと教会に行っていた。

 

さすがに帰ってくると規則的に痛むので、入院し5分おきの陣痛を8時間もやった末にケントは生まれた。

 

入院は5日間なので、私は次の安息日も教会に行っていた。

 

つまり、ケントのお産で私は教会を一度も休むことはなかった。

 

ケントはその間、母が家で見ていてくれた。

 

 

まぁ そのくらい教会を休まない。

 

 

もちろんそれがスタンダードではなく、皆さんお産の時は1ヶ月とか2ヶ月休まれることは多い。

 

私がちょっと変なのだ。

 

 

話を私が「なぜクリスチャンになったのか?」ということに戻そう。

 

 

実は私は小学校の頃に少し教会に通っていた時期がある。

 

子ども聖書とかいう塗り絵付きの冊子のような聖書を持っていた。

 

多分、新約聖書の一部だったと思う。

 

それを大事に机の引き出しに入れておいた。

 

何か嫌なことがあったり、心がざわざわすると、子ども聖書が入っている引き出しを開けて聖書を見るだけで心が落ち着いた。

 

と言うか、とてつもなく良い気持ちを感じた。

 

なぜそういう気持ちを感じるのか分からなかったけど、毎回そうだった。

 

そのことを今でもはっきり覚えている。

 

 

私は小さい頃からいつも本を読んでいた。

 

高校生になった時は、遠藤周作の「沈黙」とか
三浦綾子の「塩狩峠」とかを読んでいた。

 

遠藤周作、三浦綾子の他の作品もかなり読んだ。

 

日記にもイエス キリスト様に対する思いを書いていた。

 

このときはもちろん、クリスチャンではなかった。

 

だけど、私の心の中にはイエス キリストという存在があった。

 

 

なぜ、クリスチャンに?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

月日は流れ、私は24歳になった。

 

 

幼なじみで隣りに住む女の子が教会に行くようになって、とても変わった。

 

分かりやすく言うと、輝いている。

 

そして楽しそう。

 

幸せそう。

 

私はとても気になった。

 

幼なじみと言っても妹みたいな存在だったから、妹がそんなに変わった教会に行ってみようと思っていた。

 

 

そんな折に、彼女のお母さんが風邪なのか調子が悪かった。

 

彼女は看病をしていたが、お母さんが良くなってきたので、ちょっとお出かけをした。

 

そのときに私はグラタンをたくさん作ったので届けた。

 

なんだって隣りだし、そういうことはよくあった。

 

グラタンを渡して、帰ろうとする私におばさん(彼女のお母さん)は声をかけた。

 

「ゆーちゃんは○子のお姉ちゃんみたいだから、これからも○子のことをよろしく頼むね」

 

「何言ってるのよ。そんなこと分かってるよ。
大丈夫だから安心して」

 

その数時間後、おばさんは心筋梗塞で亡くなった。

 

 

そのやり取りが最後になった。

 

 

彼女とおばさんのお墓まいりに何回も行った。

 

お墓で彼女は教会のことをよく話してくれた。

 

「みんな、すごく親切なんだ。たくさん、助けてもらってる。相談にものってもらっている。
教会の人は、良い人たちばかり‥‥」

 

「本当にそうなのかな?」と思いながらも、
一度教会に行ってみようと思った。

 

教会の宣教師はスーツで自転車に乗って、ヘルメットをかぶった若いアメリカ人だった。

 

彼らの礼儀正しさと輝きは、私に強い印象を与えた。

 

 

結局、私は学んでから自分の意思でパプテスマ(洗礼)を受けて現在に至っている。

 

 

福音はシンプルでありながら、今までの疑問の全てに答えてくれた。

 

 

父から「おまえは社会の役に立たん」と言われ続け、生きてちゃいけないんだと思っていた私に「生きていていいんだ」と教えてくれた。

 

 

そうか、私は生きていていいんだ。

 

こんな私を神様は愛してくださる。

 

 

そのときの安堵感と喜びは忘れられない。

 

 

そして、私の人生は変わった(((o(*゚▽゚*)o)))♡

 

 

明日に続く

 

 

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