どんな思いを込めたか
「何を行ったかではなく、何を思ってしたか?
どんな思いを込めたかが大切」だと次男はよく言う。
だから質疑応答のときに「こういうケースは‥」などと絶対に言わない。
その子がどんな思いでそれをしたかをとことん考えるらしい。
どうして自分がそういうふうになったか?というルーツがあると言う。
高校生の時に先生がおっしゃったこと。
「言葉は大切だ。
言葉を大切にしなければならない。
あるとき、生徒が周りに迷惑をかけた。
その生徒は『申し訳ないです』と言った。
その言葉を聞いて『申し訳ないです』という言葉は間違っている。
だからその生徒をダメなやつだと思った」
みたいな話をしたそうだ。
そのときに次男はものすごく違和感を覚えたそうだ。
だいたい生徒は謝っている。
なぜ、謝っているその心を見ずに言葉だけにフォーカスするのか?
「申し訳ありませんでした」と言うべきだったのかもしれない。
それが「申し訳ないです」という言葉だけ聞いて言葉が間違っているからダメだと決めつけることは明らかに間違っていると感じたそうだ。
そんなときに聞いたマザーテレサの言葉
『大切なのは、どれだけたくさんのことをしたかではなく、どれだけ心をこめたかです』
マザーテレサ名言集より引用
自分がモヤモヤっと感じていた思いがマザーテレサの言葉でストーンと落ちたのだそうだ。
なぜ怒らない?
次男はほとんど怒らない。
それはそこに起因していると言う。
なぜそれを行ったか?
なぜそれを言ったか?
理由が必ずある。
だから行いや言葉だけを聞いて反応しない。
疲れていたんじゃないか?
寂しかったのではないか?
イライラしていて、つい言ってしまったのではないか?
そんなふうに考えると腹がたつことは、ほとんどないと言う。
ほんとに次男が怒ったり、人を悪く言うのを聞いたことがない。
次男の話を聞きながらこの聖句を思い出した。
『しかし主はサムエルに言われた、「顔かたちや身のたけを見てはならない。わたしはすでにその人を捨てた。わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る」。』
サムエル記上16:7
主は心を見られる。